最近、きわめて分厚いデザイン理論書を読んだ。それは、シルビオ・ルロッソ著『デザインにできないこと』(牧尾晴喜 訳、BNN 刊、2014年)だ。同書は、今日のデザインとデザイナーがが置かれている状況について、さまざまな視点からの意見や論評を参照しながら考察しているが、範囲はきわめて広い。とはいえ、ルロッソは同書のp. 50で次のように書いている。
- 「……エツィオ・マンズィーニも重要な指摘をしている。『自分自身の人生をデザインできるという近代の約束がどのように、またどのくらい満たされたかは議論の余地がある』。これこそが本書の論点でもある。といっても全容について議論するのはあまりに無謀なので、あくまでもデザインという枠内に着目することになる。つまり『自分自身のデザイン稼業をデザインできる可能性は果たしてどこまであるのか?』が本書の論点だ」シルビオ・ルロッソ著『デザインにできないこと』(牧尾晴喜 訳、BNN 刊、2024年、p. 50、エツィオ・マンズィーニの引用は、Ezio Manzini. Design, When Everybody Designs, (Cambridge MA: MIT Press, 2015)からのもの。)
この論点をめぐって、同書は300ページ以上に渡る考察を展開している。そして、最後の「エピローグ:レイジクイット」の章(ルロッソの上掲書、pp. 294–311)で次のように述べている。
- 「期待値と現実とのギャップが大きければ大きいほど、実践者は意気消沈し、幻滅しやすいということだ。そして、幻滅は瞬く間に『レイジクイット(キレ落ち:オンライン対戦ゲームなどで怒って回線を切ること)』に変わるのである。逆上の末に辞職することを避けるためにもリアリズムを実践し、現実的で健全な妥協を心がけ、プロフェッショナルとしてのナルシシズムを捨てなければならない。」(同書、pp. 295–296)*
そして、デザイン文化が「頑固かつ強情で自己中心的」(同書、p. 311)で、「他から孤立したもの、ひいては群衆から際立った存在である作り手こそが、注目に値するということになる」(同書、p. 310)という「スマート文化」(同書、p. 310)と、「譲歩的で寛容で懐が深く、現実的」(同書、p. 311)で、「(これまでの成果や発明の)上に築く」(同書、p. 311)ことを特徴とする「貢献文化」(同書、p. 310)の二つの相反する価値意識が共存していると述べている。そして、従来のデザインが独創性を重視する「スマート文化」に対応していたのに対して「貢献文化」に対応するものが、臨機応変に、既存のものを活用、再利用するブリコラージュ(bricolage)なのだして、これまでの「スマート文化」の負の側面を克服することに期待している。そうすることが「レイジクイット」を避ける道だと説く。しかし、本書での考察の結論として、将来に向けた特定の展望や指導的な方向性を導くことはしていない。むしろ、読者が批判的な態度をもって考察を継続することを求めて同書を締めくくっている。
デザインの現状というものを、本書が300ページ以上を割いて考察していることから分かるように、デザインについて考えるということ自体が難しい。なぜなら、デザインという言葉が曖昧であって、その曖昧さは、多様な種類の特殊具体的な人間の活動に共通して「デザインする」という行為があてはまる可能性があるために、デザインという言葉だけでは、それらの特殊性が捨象されてしまうからだ。
例えば、タイポグラフィ(typography)やタイプセッティング(typesetting)という語は、文字を組むという行為をいい表している。たとえ文字を組む行為以前にある、文字組みの指定やレイアウトなどの設計プロセスをもその範囲に含めたとしても、それらの語の意味が文字を組むという行為から大きく乖離したものとはならない。しかし、タイポグラフィもまたデザインに含まれる一構成要素と見なすことができたとすれば、デザインという言葉は、他の多くの個別の人間の活動にも共通してあてはまるのだから、デザインという言葉だけでは、特殊個別の行為や技術を特定できない。そして、このデザインという言葉が包摂している人間活動の範囲の広さは、近代産業の諸分野においては、個別の制作行為に先立って「デザインする(設計する)」ことが共通していることに依存している。
そして、デザインされたものを実際に制作あるいは製造する行為は、分業化された工程において複数の人間によってなされる場合が多い。例えば建築家が建物の設計図を書くとき、そのデザイン行為は、具体的な建物を建設することではない。建築デザインと建物を建設する作業とは異なるものだ。このデザインというものの、分業を前提とした、個別特殊の制作活動からの分離は、大量生産される工業製品のデザインにおいて特に明らかである。そして、いわゆるモダン・デザイン、とりわけモダニズムのデザインにおいては、工業生産に先行して、その効率化・合理化に貢献する、この設計と計画という行為の重要性が強調されたのである。
しかし、そのような現代のデザインもまた、ポストモダニズムなどの大きな変化を経ながらも、依然として、現在の社会・経済的な諸関係においては、多くの場合「スマート文化」の一部を形成して、「新自由主義的な倫理観の作用論理である『絶え間ない作り直し』と悲劇的にも酷似し」(同書、p. 310)†、「あるものを無視し、過去に何があったかも忘れてしまうような怠慢さと頑固さ」(同書、p. 310)を有するものなのだと、同書は説く。
では、果たして、同書がいうように、これまでのデザインというものの重点を、謙虚な「貢献文化」におけるブリコラージュを行う役割に移すことで、より良い方向へとデザインを導くことができるのだろうか。残念ながら、そのような確信をもつことはできなかった。この点には疑問が残る。
むしろ、デザインという言葉を、それが孕む抽象性をそのままにして使い続けることの妥当性・可能性について、再検討が必要なのではないか。現在の意味での「デザイン」が成立する以前の、人間の制作行為の在り方、つまり設計と制作・製造がより同時的で緊密であった時代の姿に立ち帰って考えることが必要かもしれない。
とはいえ、多面的な考察を含む『デザインにできないこと』は、今日のデザインの在り方について、危機意識をもって真剣に考えている人々にとっては一読の価値があると思う。
注釈
* ただ「現実的で健全な妥協を心がけ」の部分は英語の原著、Silvio Lorusso. What Design Can’t Do. (Eindhoven: Set Margins’ Publications, 2023)では「make a healthy compromise with reality」(op. cit., p. 291)となっていて、「ナルシシズムを捨てなければならない」の部分も原著では「(one should) . . . tame professional narcissism」(op. cit., p. 291)であるから、これらの部分はそれぞれ「現実と上手く妥協して」、「ナルシシズムを抑制しなければならない」と読み替えた方が分かりやすいと感じた。
†「新自由主義的な倫理観の作用論理である『絶え間ない作り直し』と悲劇的にも酷似し」(日本語版、p. 310)とあるが、この「絶え間ない作り直し」の語句は、原著ではrelentless reinvention (op. cit., p. 305)となっている。「絶え間ない再発明」と直訳した方が、元々の意味が分かりやすく感じる。
備考
このシルビオ・ルロッソ著『デザインにできないこと』(牧尾晴喜 訳、BNN 刊、2024年)の日本語版の訳語について、さらに感じたことを以下に述べる。
1. 同書p. 214に「サンドバーグ・インスティチュート」とあるのだけれど、Sandberg Institutはアムステルダムにあって、オランダの著名なタイポグラファのWillem Sandberg(ウィレム・サンドベルフ)にちなんで名付けられたので、「サンドベルフ・インスティチュート」とした方が良いと思った。
2. 同書p. 172にあるマイケル・ロックの「非専門性について」という記事からの引用文の中で、「リーディング」とあるのは行間空き量(または行間送り量)を意味する「レディング」(leading)だろう。また、これは私の個人的な考えだが、その語と同じ行にある「ラグ」(原文では"rags")の意味は説明した方が良いのではないか。これは行末成り行き組み("ragged right" or "flush left")のことだ。
3. 同書p. 166に、「レフ板カメラ」とある。これは、原著では、"reflex camera"(Silvio Lorusso. What Design Can’t Do. (Eindhoven: Set Margins’, 2023), p. 163からの引用)とある。
しかし、reflex cameraは、「レフレックス型カメラ」とするのが良いのではないか。なお、古い『デイリーコンサイス英和・和英辞典』(第4版、三省堂、1990年、p. 467)は「レフレックス型カメラ」、新しい『ウィズダム英和辞典』(第4版、三省堂、2024年、p. 1649)は「レフレックスカメラ」としている。
「レフ板」というと、写真撮影の際に、太陽光や人工照明の光を、一度、白色や銀色の板に反射させて、間接光を作る目的で用いる反射板である。それに対して、レフレックス型カメラで用いられるのは、そのような反射板ではなく、鏡であり、レンズに入る映像を反射させて二眼レフレックスの場合はファインダーの磨(すり)ガラスに、一眼レフの場合にはファインダーの前のペンタプリズムに送る。鏡は光を反射するからreflexと呼ぶのだが、そのミラーとレフ板とは異なるものだと思う。
4. 「文化媒質(kulturtechnik)」(シルビオ・ロルッソ著『デザインにできないこと』(BNN, 2024)p. 180からの引用)という語は少し分かりにくい。これは、ドイツのメディア論で使われる言葉なので、文字通り訳して「文化技術」とした上で、脚注で「読み書きなどの文化的な基礎的な技術、能力を意味する」などと説明し、さらに参考文献を紹介するのが良いのではないか。Kulturtechnikについての概要は、以下のページで分かる。
5. p. 77には、「お役所主義的な文化ツールとしてのデザインを通じて、これまでの実践の還元主義的な充当を認めつつも、彼らにとっての権威(現実のものでも認識されているだけのものでも)にしがみついているのだ。その権威が、非合法とまではいかなくても、効果的でない暫定的なものだと察しているにもかかわらず」。とある。これは、原著Silvio Lorusso. What Design Can’t Do.(Eindhoven: Set Margins’, 2023)の次の文章に対応している。
“Recognizing the reductive appropriation of pre-existing practices through design as a bureaucratic cultural instrument, they nevertheless cling to their authority, real or perceived, sensing that it is ineffective, provisional – if not illegitimate.” quoted from Silvio Lorusso. What Design Can’t Do. (Eindhoven: Set Margins’, 2023), p. 84.
ここで分かりにくいのが、「これまでの実践の還元主義的な充当」の部分だ。「還元」(reduction)という語はその前のページの次の文に現れている。
「『(活性化の名を借りた)地方のハッキング』、『コンテンツ・デザイン』、『フード・デザイン』といったものに還元されることに抵抗する」(同書pp. 75–76からの引用)
単純化してあてはめてしまうことを意味しているようなので、それは「還元」といえるが、reductiveを「還元主義的」というと、少し分かりにくくないか。そして、「充当」という語も、意味を読み取るのが難しく感じる。このp. 77の箇所は「既存の種々の実践を単純化して流用していること」を意味しているのではないか。またillegitimateという語を「非合法」と解釈しても間違いではないけれど、「不当」とした方が分かりやすいと思った。
2025年4月12日
なお、上に述べた感想及び意見はすべて山本太郎個人の感想及び意見であって、他のいかなる個人および法人および団体の感想でも意見でもない。
クレジット:
(C) Taro Yamamoto, 2025