團伊玖磨の『パイプのけむり』ではないので、続編はこの「その2」だけにする予定であるが、少し追記する。
「邦文写真植字機発明100周年」と聞くと、手動式の邦文写真植字機の全盛期の1970–80年代には多様な和文書体がデザインされただけでなく、写植機メーカーの広報誌の刊行も盛んであったことが思い出される。
『タテ組ヨコ組』(創刊号–57号、モリサワ、1983–2002年)誌は、グラフィックデザインを主にし、カラー図版を多用した記事によって新しいデザインとタイポグラフィの潮流を紹介していた。他方で、「活字今昔物語」(大輪盛登著)や「東西活字講座」(小塚昌彦著、一部の記事は私も寄稿)のようなタイポグラフィの歴史や技術を説明する内容の連載記事もあった。1984年の6号には、「邦文写真植字機発明60周年」の記念パーティや記念出版物『文字の博物館』(ヨーゼフ・バルタザル・シルヴェストル著、矢島文夫監修、 田中一光構成、モリサワ、白水社刊 、1984年)に関する記事もあり、その時から既に40年を経た今読みかえすと懐かしくも、まさに光陰矢の如しと想わせる。
『アステ』(Nos. 1–9、リョービ印刷機販売、リョービイマジクス、1984–91年)誌は、活版印刷から写真植字、デジタルフォントという技術的な変遷と文芸、編集・出版、書体デザイン、グラフィックデザイン、用字・用語など関連領域との関係についての重厚な内容の記事を掲載し、タイポグラフィを啓蒙し議論を喚起する内容であった。山本健吉、保昌正夫などの文学者、文学研究者の記事には味わい深いものがあった。
当時は、日本の主要写真植字機メーカー(写研、モリサワとリョービ)が、それぞれ自社の写植機用に新しい多様な和文書体デザインを多数生み出していただけでなく、日本のグラフィックデザイン界全体が探求し拡張してきた手動の邦文写真植字機を利用した和文タイポグラフィがある一つの成熟段階に到達しつつあった。
2024年7月27日