亜亜工業について(第二冊)
「誰が書いたのか」という問いを無化すること──それが今回の試みの出発点にあります。
近年の生成AIの発展によって、言葉が自動的に生成され、流通し、変形していく様子が日常のなかに可視化されつつあります。言語があたかも自ら動いているように見えるこの現象は、しかし新しいものではありません。言葉とは本来、そうした仕組みを内在させた装置であり、AIはその構造をただ露出させたにすぎません。
手紙や日記という形式は、書き手と読み手のあいだに揺らぐ境界をもともと内包しています。その上に「架空の二人」という設定を導入することで、私たちは語りの起点を意図的に失わせ、書くという行為そのものを生成の運動として立ち上げようとしました。人物Aと人物Bは存在しません。にもかかわらず、彼らのあいだに生まれた語や文体、沈黙の気配は、確かに在るものとして受け取られます。
手紙と日記の往復から生まれた断片を再構成し、そこから詩篇を生成する過程は、主体なき発話の転写であり、痕跡の編集でもあります。AIによる生成が言語の自律性を露出させた現在、人間による生成の試みは、その模倣ではなく、むしろ言語がもともと他者的であったという事実をあらためて実感するための実験です。
前回の試みが、詩の生成を複数の主体による遊戯として展開したものであったとすれば、今回は書く主体を消去し、言葉の運動そのものを観察する試みです。誰かが書いた/誰も書かなかったという区別は意味を持ちません。残るのは、言葉が通過し、かたちを得ては溶けていく、その痕跡だけです。
亜亜工業は、そうした言語の稼働を観察し、形式として提出する場として機能しています。詩篇は、その稼働の残響です。
私のための言葉も、あなたのための言葉も、みんなのものになる。
���筆者:奥間埜乃・河野聡子・高塚謙太郎・山田亮太
奥間埜乃(おくま のの):人文学系出版社勤務を経て、現在詩作をメインに文筆活動に従事。著書に詩集『さよなら、ほう、アウルわたしの水』(書肆山田)『黯らかな静寂、すべて一滴の光』(書肆山田)。
河野聡子(こうの さとこ):詩集に『時計一族』(思潮社)『Japan Quake Map―Sapporoによるヴァリエーション』『WWW/パンダ・チャント』(ともに私家版)『やねとふね』(マイナビ出版)『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』(いぬのせなか座)。
高塚謙太郎(たかつか けんたろう):◇詩集『さよならニッポン』(思潮社)、『カメリアジャポニカ』(思潮社)、『ハポン絹莢』(思潮社)、『sound & color』(七月堂)、『量』(七月堂 、H氏賞)、『哥不』(ヰ層楽器)◇詩集以外『詩については、人は沈黙しなければならない』(七月堂)、『散文の連なりについて』(七月堂)
山田亮太(やまだ りょうた):詩集に『ジャイアントフィールド』(思潮社)、『オバマ・グーグル』(思潮社、小熊秀雄賞)、『誕生祭』(七月堂)。共著に『空気の日記』(書肆侃々房)、『TEXT BY NO TEXT』(いぬのせなか座)、『新しい手洗いのために』(素粒社)など。
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