最近の日本の政治におけるポピュリスト/ファシストの台頭について 山本太郎

政治の世界では、保守主義や伝統主義には良い点がある。合理的に見える政策でも、新しい政策に性急に飛びつくのではなく、過去の経験に学び、漸進的に必要な改革や改善を進めるという保守主義や伝統主義の流儀が望ましい場合があるからだ。

しかし、この良い点が発揮されるには、条件がある。伝統もまた変化し、進化するのだ、ということを理解していることが必要だ。でなければ、保守主義や伝統主義は、ただ退化と反動につながるだけであって、社会や文化の進展を阻害する。

現在、日本を含め世界中で、時代に相応しくない制度や国家の在り方を主張する反動的な政治的傾向が蔓延しつつある。その種の傾向は、多くの場合、国民から自由を奪う統制的、権威主義的な体質を「愛国心」という美名のもとに正当化する。先の参議院選挙で、大日本帝国憲法の内容を下敷きにしたような改憲論を掲げ、天皇を中心とした「國體」の復活を主張する参政党が躍進したことに、その傾向が典型的に示されている。

現憲法が1947年に施行されてから、80年近くが経過した現在、日本国の象徴としての天皇の位置づけは、意見の差はあれ、大きな論争の対象とはなっていない。天皇中心の政治体制(「國體」)に戻そうとする考えは、保守的な人々のあいだでも、多くの支持が得られるとは考えにくい。なぜなら、象徴天皇制が保守主義者が尊重する伝統的な天皇中心の日本の在り方と矛盾するものではないからだ。

何らかの形で天皇を中心とする考え方の核心には、『日本書紀』(巻第二 神代下 第九段)に記された「天壌無窮の神勅」があるが、そのことを、東京裁判で戦犯として訴追されたが免訴された思想家の大川周明は著書『日本二千六百年史』(年、第一書房)で力説している。国粋主義者は、「万世一系」の天皇を中心とした国の在り方(「國體」)が、神の命に従ったものであることをもって、日本民族の独自性と優秀性の根拠とした。『日本書紀』は八世紀に、大和朝廷の正統性を示し、律令制を確固としたものにする政治的な意図をもって勅命によって編纂された。したがって『日本書紀』が政治性をもつ文書であることは否定できない。他方で、1,200年に以上にわたって、何らかの形で天皇を中心とする考え方が、日本の政治思想の伝統であったこともまた否定できない。そのことから、保守主義者や伝統主義者だけでなく、多くの人びとのあいだで、その考え方の全部または一部が尊重され続けている。

しかし、現代日本の社会は、律令制の社会でも、明治以来敗戦までの大日本帝国の社会でもない。主権在民、基本的人権の擁護と平和主義を基本理念とする社会である。現憲法では、天皇は日本国の象徴である。この現憲法が規定する「象徴」の語は、西修の『日本国憲法はこうして生まれた』(中公文庫)によれば、必ずしもGHQの発明した言葉ではなく、1931年のウェストミンスター憲章の英国王の定義にあるだけでなく、1945年当時の日本の政治家などが既に憲法についての議論の中で実際に使われていたという(前掲書p. p. 170 & p. 171)。それは、国家権力から離れた「日本民族の生ける象徴」(前掲書pp. 171–172のマッカーサー元帥の側近の軍事顧問フェラーズ准将の年月日付『最高司令官のための覚書』からの引用)であり、日本国民の統合の象徴として天皇が位置付けられた。政治的には、戦争責任の問題とともに、天皇を中心とした日本を意味する「國體」を新憲法下においてどう位置付けるかは、降伏条件を交渉した大日本帝国政府にとっては最重要な事であり、戦後の憲法制定の過程においても、当然最重要な課題の一つであったが、保守的・進歩的な考え方の両極に偏ることなく、しかし主権在民の民主的な新しい日本の在り方とも矛盾しない、バランスのとれた天皇の位置づけとして選択された。現憲法においては、日本国を象徴する文化的伝統として天皇は認識され、日本国における権力の行使の主体が国民であることとは異なる次元の存在として位置付けられている。

敗戦後、現憲法の案が作られ議論された時点で、日本政府の自立性に対する疑義、憲法案の内容や文体に対する批判が保守派からなされたことは周知のことである。そして、敗戦国が戦勝国に「押し付けられた憲法」であるという主張には相当の説得力がある。しかし、前掲書に書かれている当時の貴族院での議論などにおける、憲法案に対する批判の多くは、例えば沢田牛麿貴族院議員の主張は、天皇の統帥権を保護すること、天皇制と家制度を保守することが「國體」を維持することだという、大日本帝国憲法の考え方からなされている(前掲書p. 361に「君主に統帥権が与えられなくてどうするか」、「公の方面における家族制度は天皇制で、これが国体であることは言うに及ばないが、民間におけるお互いの家族制度も、日本の国体であると思う。この二つを壊してしまえば、日本の国体はゼロになってしまう」などの同議員の発言が記されている)。このことは当時の保守派の主張の重点が、大日本帝国憲法からの逸脱を拒否することにあって、主権在民の民主的な新しい日本の社会の在り方、それに相応しい立憲君主制の在り方を創造的に構想するという能力を欠いていたように思える。日本国民は新憲法下においては、臣民ではなく、一人一人が主権者であり、個別の自由な考え方と自己決定権を有する個人なのだ、ということを理解できなかったのであろう。そのため、天皇制という彼らが最も保守すべきと考えていた日本の伝統を、新しい社会に繋ぐ方法を考えようとしなかったのではないか。ここには、伝統もまた変化するのだという理解の欠如が、明らかに見える。

先の参院選挙では、先に述べたが、大日本帝国憲法を下敷きにしたような改憲案を掲げる参政党が多くの票を得た。帝国憲法は、既に廃止されている。現在の憲法が改正される場合でも、大日本帝国憲法に逆戻りすることはありえない。なぜなら、主権在民、基本的人権の擁護、平和主義という現憲法の最重要の要素を大日本帝国憲法は欠いているからである。そのような旧体制の憲法を範として、現憲法の改正を構想するなどということは、自由と民主主義を守り育てることを理想として掲げる現憲法の精神からは、到底考えられないのである。このことは、保守主義や伝統主義の是非という次元とは、まったく異なる次元の問題である。現代日本の存在基盤、現代日本人の権利と尊厳を守れるか、破壊し冒瀆、蹂躙するのか、という次元の問題である。帝国憲法を下敷きにしたような改憲案を掲げ、天皇を神格化するような政治姿勢は、反ファシズム、反国家主義の観点から徹底的に批判されなければならない。

そのような非現実的で非民主的な改憲案を主張する政治勢力が台頭する状況は、まさにポピュリスト/ファシストが台頭している状況に違いない。ポピュリスト/ファシストが掲げる「愛国心」というスローガンは、独善的で権威主義的な政権を樹立し、その強引な権力の行使を正当化するための、道具に過ぎず、深い熟慮と考察に基づいたものではない、なぜなら、もしそうであれば、過去の憲法や旧体制の在り方をただ賞揚するだけでなく、「愛国心」には、自由と民主主義をいかに維持向上するかに心をいたすことも含まれることについて、もっと言及すべきだろう。保守主義者が自由主義と民主主義の重要性以上に、非民主的な過去の政治体制の憲法の考え方を優先するなどということは、あってはならないことである。

「愛国心」とは、本来、国を愛することに他ならないが、この「国」は、必ずしも現在の政治体制や現政権を意味するものではない。その「国」は、自分自身の生存と生活、家族、そして日本の国民、自然と風土、歴史と文化、国民性等々、その範囲も解釈も、幅広く多様であり、曖昧である。「やまとだましひ」や「やまとごころ」とは何であるかについて考え、文献を渉猟し、日本らしさとは何かについて考えを深めることもまた、愛国的な行いではないか。それなのに、ポピュリスト/ファシストが行っているのは、国民と国家との関係を転倒させ、国家権力を拡張させ、外国人差別や性差別などの種々の差別を助長し、人間を「敵」と「味方」に分断し、「敵」を攻撃し、ただ自国の力と国家の力が強くなることを追求している。そのことを「愛国的」な行為であると喧伝している。

今日のポピュリスト/ファシストは、大衆の内に蓄積された不満と怒りと苛立ち(つまり、それは現実の窮状に対してなんら即効的な対策を打たずに、不公平と不正と貧富の差の拡大、私有財産権の毀損と、国家財政の信用低下とをただ放置し続けている政府と野党に対する反感)の声を汲み取り、それを扇動する。分かりやすい「敵」に狙いを付けて攻撃し、巧みな情報宣伝活動、デマと陰謀論の流布による洗脳によってさらに多くの大衆からの支持を取り付けて「味方」にする。そこでは、主張や政策の正しさや合理性よりも、「敵」にダメージを与え排撃する上で効果的であるか、「味方」を増やせるか、が優先される。そして、そのデマゴギーとプロパガンダにもっともらしさを与える、思想、信条、信仰として「愛国心」という概念を利用する。神格化された天皇を中心とする国家に対する服従を国民に強い、その国家体制(「國體」)を、神話と結びついた「万世一系」の伝統が継続する美しい国として崇拝させようとする。そして、自分達とは異なる考え方を持つ人間を「敵」とみなして、排撃し、弾圧し、「非国民」扱いするのである。ここにある排他性は、明らかに、国民相互の互恵と尊重、同胞愛を基盤とするような「愛国心」とはまったく異なるものであろう。そのようなポピュリスト/ファシストが権力を奪取した日本を想像しただけで、怖ろしくなる。

例えば、ポピュリスト/ファシストが喧伝する外国人問題についても、日本の現在の法制度や行政の施策が、違法行為や外国勢力による謀���を防止するのに不十分だというなら、個別の違法行為や謀略の存在を客観的に示して、そのための法律や政策を提案すれば良いのであって、外国人を排斥したり、不法入国者の人権を無視したり、帰化や移民そのものを否定したりすることは、むしろ彼らの主張とは逆に、日本の国益を損なうであろう。労働力の移動、経済の国際的な相互依存性を否定して、現代の資本主義社会における経済の発展は望めない。

かつてナチスが支配したドイツの第三帝国の法学者であったカール・シュミットは『政治的なものの概念』(1929年版)で、「種々の政治的な行動と意図が還元され得る政治に固有な区別とは、味方と敵との区別である」(下記文献より引用して訳出した:Schmitt, Carl. The Concept of the Political, Expanded Edition, English Edition, The University of Chicago Press. Kindle Edition, p.26.)と述べ、さらに「政治における敵は、道徳的に邪悪であるとか、審美的に醜悪である必要はない――経済的に競合する者として現れる必要もない。むしろ敵と商取引をすることが有利になることさえある。しかし、敵は、他人であり、よそ者であり、特に極度に実存的に異質で相容れないものであり、極端な場合には紛争が生じ得る、ということだけで、その本質としては十分なのである」と述べた(前掲書より引用して訳出した。Ibid. p.27.)。

敵を「実存的に異質で相容れない」(上記引用より)ものとみなしているということは、そこで起こり得る紛争は、窮極的には暴力的なもの、つまり戦争にまで発展する可能性があることが示唆される。国家権力の権威が、軍隊と警察という暴力装置に基づいていることからも、このことは明らかである。しかし、もし、それが政治というものなのだとすれば、ポピュリスト/ファシストの言葉の使い方は、政治的表現の典型という事ができる。言葉の使い方が暴力的なのではなく、言葉の背後に本当の暴力が潜んでいる。

しかし、カール・シュミットの言うように、政治というものがそのようなものでしかないとしたら、その政治が生み出すものの可能性はきわめて冷酷なものになる。まさに、ポピュリスト/ファシストによる味方と敵の区別、敵への容赦ない攻撃は、現実の政治の最も絶望的な側面を強化し、国民相互そして日本人と外国人とを憎しみによって分断し、国民生活の物質的・精神的・倫理的な向上の可能性を奪い、暴力が容認され戦争を不可避のものとしてしまうだろう。

そして、あらゆる文化的な伝統は、それが何であれ、恣意的に政治化され利用される。日本における「愛国心」や「國體」や「万世一系」などの言葉もまた、肯定・否定を含む、多様な考え方のなかで議論し、歴史的な文脈で位置付けて批判的に検討するのではなく、現在の政治的状況に強引に持ち込んで、ポピュリスト/ファシスト政党の考え方を補強し、その権力確立のための独善的なプロパガンダの道具として利用する。そこでは、もはや現代日本が、自由と民主主義を前提とする社会であるという基本ですら忘れ去られる。いかなる立憲君主制の在り方を構想し実現すべきか、などという真に現実的な課題に対する目的意識は希薄になり、ただ「古き良き」また「美しい」日本という観念的で空虚なスローガンのために、現実社会における自由と人権と民主主義が軽視されるのである。

憲法改正の主張は多様だが、現憲法を基に、その中心的な考え方である主権在民と基本的人権の擁護、平和主義を基盤にして、いかに現実的な課題に対処できる改正を行うかを構想すべきなのであって、大日本帝国憲法を下敷きにしたような改憲案などは、合理的で現実的な改憲の議論のスタートポイントにすらなりえない。日本人は、今、自由と民主主義を破壊してしまう危機が、近づいていることを認識すべきである。そして、それはポピュリスト/ファシストの非現実的で非合理なデマゴギーに騙されないこと、つまり合理的かつ客観的に思考することが肝要と考える。

An English version of this article is accessible from: About The Rise of Populist/Fascist Elements In Contemporary Japanese Politics

注記:この『私の憲法改正案』の内容はすべて山本太郎個人の考えを記したものであって、他のいかなる個人および法人および団体の感想でも意見でもない。

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